覚如上人は親鸞聖人の曾孫に当られ、幼少より容姿端麗、学才に秀でていたといわれます。また、父覚恵上人、本願寺第二代如信上人、そして「歎異抄」の作者と伝えられる河田の唯円房など、親鸞聖人面授の方々より、他力念仏の深い教化を受けました。
一方その頃、親鸞聖人のみ教えは全国に弘まりつつありましたが、同時にみ教えを自己流に解釈し誤った言動をするものも増えていったようです。年若い覚如上人はそのような事情を肌で感じ、親鸞聖人のみ教えを正しく伝える必要性を実感されたのではないでしょうか。やがて、その思いは本願寺教団の創設へと向かわれます。
覚如上人は一体どのようなご事跡を遺されたのか、これより辿ってみます。
【廟堂の寺院化】
親鸞聖人は生涯法然聖人を師と仰ぎ、自ら一宗を開き教団をつくる意思はお持ちではありませんでした。親鸞聖人亡き後は、信者が集う寺院もなく、代わりに人々は、聖人のご遺骨が安置された大谷の廟堂(お墓)でそのご遺徳を偲んでいました。覚如上人は全国の念仏同行の崇敬を集めるその廟堂を寺院化し、念仏の本山として教団を形成しようと志されたのです。
【親鸞聖人ご伝記の作成】
上人は弱冠25歳にして、親鸞聖人の御一代記「報恩講私記」を著されました。翌年にはさらに本格的な伝記「親鸞聖人伝絵」を完成させています。いずれも、現在の報恩講法要においても拝読される重要なご文です。名利を嫌い公に出ることを憚った親鸞聖人にまつわる資料は、極めて限られています。これら伝記本がなければ、親鸞聖人のご生涯は歴史の闇に埋もれてしまっていたかもしれません。覚如上人は、それまで人々の心中にあった親鸞聖人像を文字に浮かび上がらせ、統一させました。そして、親鸞聖人こそが法然聖人のみ教えの正統な承継者であるとして、他の浄土系諸宗派とは異なる一宗の立場を明確に表されたのです。
【留守職】
親鸞聖人の廟堂は、その末娘覚信尼公が夫の所有地(京都大谷の地)を関東の門徒衆に寄進して出来たものです。関東は親鸞聖人が20年に亘って布教伝道された地で、聖人亡き後、孫の本願寺第二代如信上人がその人柄と力量によって、関東門徒衆をまとめ上げ、大きな力を持つに至りました。覚信尼公は、土地の寄進と引き換えに、廟堂の管理責任者―留守識(るすしき)の初代に収まり、関東門徒衆の強力な後ろ盾を得たことになります。覚信尼公没後は、覚恵上人(覚如上人の父)が留守識を引き継いでいましたが、覚如上人38歳の時にお亡くなりになります。廟堂を寺院化しようと志す上人にとって、有力な関東門徒衆の擁護する留守職の継職は必須の事柄でした。しかしながら、異父弟との確執や他の門弟たちの牽制に遇い、一時は諦めて別に一寺を建立しようともされましたが、41歳の時、紆余曲折を経てついに留守職を継ぐことができました。
【本願寺の創建】
留守職に就いた覚如上人は、念願の廟堂寺院化に向けて精力的な活動を展開しました。廟堂を本山として位置づけるには、各地に散らばる門弟達をまとめねばなりません。越前・伊勢・奥州などに向かい、教線の拡大に努めました。
正和元年(1312)留守職就任から二年後、覚如上人は廟堂に「専修寺」の寺号を掲げます。廟堂を中心とした教団の形成に、確かな手ごたえを感じたのでしょう。「専修寺」の額は、比叡山の反発により敢えなく降ろすこととなりますが、やがて「本願寺」の字号を改めて掲げ、世間にも認知されていきました。
正和元年(1312)~元享元年(1321)に至る9年間の何れかの時期に、浄土真宗教団の本山「本願寺」の原型が誕生したのです。
【信仰の統一】
本願寺を中心とする教団組織を形成しつつあった覚如上人に残された課題は、信仰の統一でした。各地に割拠して夫々の立場を守っていた門弟達には、親鸞聖人のみ教えを独自に解釈する者も少なくありませんでした。それらの異義や邪義はやがて教団の地盤を揺るがし分裂させる因子ともなりかねません。そこで覚如上人は、親鸞聖人のみ教えの要を押さえ、間違いなく伝わるよう次のように示されました。
①平生業成 「執持抄」にて。嘉暦元年(1326)56歳の時に著す。
浄土真宗のみ教えはこの世の命が終わって救われる教えでなく、生きている今この時に阿弥陀仏の救いがはたらく教えである。
②信心正因 「口伝抄」にて。元弘元年(1331)62歳の時に著す。
浄土往生は、自力のはからいや、念仏した回数によって定まるのではなく、阿弥陀仏より恵まれた信心によって往生が定まるという絶対他力の立場を示す。
③称名報恩 同じく「口伝抄」にて。
自らが称える南無阿弥陀仏の念仏は、救いのための手段ではなく、阿弥陀仏より恵まれた信心によって浄土往生が定まった、そのお救いに対する御恩報謝の念仏である。
これらのお示しは、み教えの核であると共に、他の浄土系諸宗派とは異なる親鸞聖人独自の思想的立場であり一宗派としての教学的立場でもありました。以後、上人のお示しを基として浄土真宗教学は発展していきます。
このように、覚如上人はそのご生涯を賭して、本願寺教団の設立にご尽力されました。宗祖親鸞聖人が開宗の意志をお持ちでなかったため、覚如上人のご事跡は、宗祖のご意向にそぐわないものとして受け取られる場合もあります。親鸞聖人が名利を嫌い隠遁の生活を送られたのに対し、教団を公に認知させその最高権威に坐した覚如上人の立場は相反するように見えるのも確かです。しかし、数々の障害を粘り強く乗り越え、伝統・教学・実務と多岐に亘り教団をまとめ上げた上人の多大なご事跡を辿る時、名利だけでは片づけられない強固な動機を思わざるを得ません。親鸞聖人の血脈を受け継いだものとして、聖人が生涯を賭して示された真実のみ教えを曲げることなく世に伝え弘める―その純粋な伝道精神と使命感が覚如上人のご生涯を貫いていた、そう言えるのではないでしょうか。
『覚如上人がおでましになかったら、あるいは今日の真宗教団は存在しなかったかも知れぬ、一宗の教義は確立しなかったかも知れぬ、少なくとも覚如上人の努力がなかったら、われらはこうした真宗教義に縁を結ぶことができなかったかも知れぬ、かくて、真実の法を顕開せられた親鸞聖人を憶うものは、亦た、どうしてもその真実の法を伝統された覚如上人を憶わねばならないのである。』
―梅原眞隆(1885-1966元浄土真宗本願寺派勧学寮頭)著「覚如上人の伝統」より―
【参考文献】
「西山別院誌」西山別院法要事務所 明治35年
「覚如上人の伝統」梅原眞隆著 顕真学苑出版部刊 昭和6年
「覚如」重松明久著 吉川弘文館 昭和39年
「本願寺史」第一巻 本願寺史料研究所編 平成22年